クレテック製造ストーリー

2020/03 特集

金物工法の先駆け、クレテック

木造建築金物工法の先駆けでもある、クレテック。軸組工法の継手部分を金物に置き換えたことで、接合部の強度が強くなり、構造物の耐力は格段に高まりました。

タツミがクレテックの製造を始めたきっかけは、秋田県で行なわれた建材問屋の展示会。スーパーベースを中心に展示していたところ、大工から「通し柱をいじめない金具はないのか」と言われたことから新たな金具の研究を重ねます。通し柱とは、家の四隅にある大事な柱。しかし、建築の際には何方向にも穴を掘るため、弱くなってしまうのです。タツミは木造専門の金具を作っていたこともあり、開発を試みますが、通常の仕事に追われ新商品開発は思うように進みませんでした。

出会いは沖縄

クレテック発明者の呉屋さん(右)と(1987年頃)

思案を重ねているときに出会ったのが、沖縄の木造軸組伝統工法である「貫木屋」と呼ばれる技法をベースにした接合金具。たまたまテレビを観ていたときに流れたニュース番組で発見したのです。

創業者山口はこの金物を開発した沖縄の大工・呉屋繁雄(ごや・しげお)さんを訪ねるため、沖縄へと向かいます。呉屋さんはサウジアラビアで社員寮を建設した際に様々な国籍の人間がいる中で画一的な金具を使って作業ができないかと考え、クレテックの原型となる金具を作成したそうです。初めて会ったときに山口は、「今はまださんちゃん企業だけど、ネットワークだけはあるので、ぜひ作らせてほしい」と熱意を伝え、その後、沖縄県庁の建築部長や議員のもとも訪れるなど、足繁く沖縄に通いました。その甲斐あってか呉屋さんの心もようやく動き出し、1987年には三条の工場を見学。「やってみますか」と話が一気に進みました。

10年間の忍耐 大震災を機に全国各所へ

1988年にはクレテックの特許使用許可がおり、呉屋さんには生産個数に応じて特許料を支払うことで了承を得ました。その後はクレテックの荷重実験をはじめとする、データ集めに奔走。現場の効率向上が期待されるクレテックはいずれ大工が減少することが見えているなかで、絶対に必要な金具でした。しかし、特許の使用許可を得ても2〜3年は鳴かず飛ばず。

あるとき、大学の教授がクレテックを紹介、さらに日刊木材新聞でも取り上げられ、徐々に知名度が上昇していくようになりました。そこで起こったのが、阪神・淡路大震災。約5,000人が老朽化して倒壊した木造軸組住宅の下敷きとなり、耐久性が乏しい住宅が問題視され、耐震に強いクレテックが注目されるようになりました。結果、クレテックを使う企業が増え、国内シェアNo.1の地位を獲得するに至りました。